突然だけど、「ジョーカー」という悪役を知っているだろうか?
バットマンの宿敵として、社会に悪を振りまく不気味なピエロだ。
皆さんは悪役と聞いたら、どんなイメージを持つだろうか。
普通のアクション映画なら、敵自身がめちゃめちゃ強くて、正義の主人公と激しいバトルになるのが常だろう。
しかし、ジョーカーは違う。
彼は全く身体能力は優れていない。
とてつもなく卑劣なことを考えつくという、ただそれだけだ。
例えば、人質2人を別々の場所に配置し、どちらか一方のみ助けに行くようバットマンに選ばせる。
片方はバットマンの仲間の検事、もう一方はその恋人だ。
街の平和のために検事を助けに言ったバットマン。
その瞬間、容赦無く恋人は爆殺される。
ジョーカーは恋人を失った検事を唆し、狂気の悪へと引きずりこんだ。
以上の例からも顕著に伝わるのが、ジョーカーは他者を悪へと誘うのが非常にうまい。
つまりは、"悪のインフルエンサー"ということだ。
現在公開中の映画『JOKER』のキャッチコピーでは、"悪のカリスマ"と言われているが、それは少し違うと思う。
彼はカリスマでもなんでもない、むしろ元々は社会にうまく入れていない人間だったのだ。
アメリカのパーティ社会において、集団とうまく馴染めない人(特に貧困層)は、孤独を感じている。
その一人がジョーカーだった。
誰が自分の味方かもわからず、ただただ辛い生活を続け、自分より上位層のサラリーマンたちから突然暴行を受けたりもする日々。
そんな暴力が横行して荒れた街でも、本当の上位層(富裕層)の集団は気にもとめず娯楽を楽しんでいる。
富裕層にとっては、彼らのデモや暴力なんて別世界の話なのだ。
これは正直僕も思ってしまっている。まったく気にもとめていない。
暴れ出す人が出てきたら、「とっとと捕まってしまえ」と思っておしまいだ。
人は、恐怖心を与える相手を排除しようとする。
それは生物として当然の考えだ。
暴力団とか犯罪者とかは、みんな消え去って欲しいと思う人は多いだろう。
僕もそうだ。
その他人行儀な姿勢が、社会が、ジョーカーという悪のインフルエンサーを生み出したのだ。
劣っている者が人と関係を持つには、怖れられられれば良い。
この発想に至ったのがジョーカーであり、彼に賛同するピエロたちだ。
彼らは暴力によって、お互いが仲間と認識することができる。
「ああ、こいつも俺と同じ。社会から外されたんだな。」と。
そうして集まったピエロ(素顔を隠した者)たちの暴力には、
「自分たちを嘲笑う社会を壊すことで、今度は自分たちが笑う側に立てる」
という思想が潜んでいる。
僕たちは、どうしてもジョーカーの側に立ってこの映画を観ることはできない。
映画を観に行けるような幸せな僕らは、パーティ(社会)から排除されてはいないからだ。
社会からいじめられた者が、さらに自分たちより下の階層の人たちをいじめる。
そんな負の構図が生み出した、最下層の危険な行動を描いているのが、ジョーカーという映画だ。
ちなみに、ジョーカーから見たら、正義の味方バットマンは自分の引き立て役に過ぎない。
ルパンでいう銭形的存在だ。
(岡田斗司夫さんのYouTubeチャンネルより)
悪を否定するバットマンは、結局は顔を隠し、正義に縛られてコソコソ戦うことしかできない。
こんな見方もジョーカー視点ならできるというわけだ。
ジョーカーという映画を観ると、自分がいかに社会の負の側面を見ずに生きてきたかがわかる。
そんなやましい気持ちになってしまうのだ。
今回は前向きなコメントでは終われない。
悪に対する価値観を考えさせられる映画でした。
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